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 映像や写真は過去のものしか映しだすことができない。しかし過去を映しだすことができるからこそ、今はもう失われた人やものと画面上で出会うことができる。この映画は、いまはもう存在していないものを、ある仕方によって現代あるいは未来の人々に伝えることが、ドキュメンタリー映画の果たしうる役割であるということをもう一度考えさせられる。そういった試みは、かの有名なアウシュビッツの証言を記録したランズマンの『ショアー』における困難な挑戦を思い起こさずにはいられない。
 『真珠のボタン』という映画は、近代化の過程で排除された2つの共同体に関する「証言」を基盤にし、さらにそこからの発展を試みている。過去に起きた出来事の表象不可能性にぶつかりながらも、偶然の産物である「ボタン」の発見によって不思議なかたちで2つの歴史のパラレルな関係を新たに発見することとなった。
 この映画が扱う1つ目の共同体は、チリの先住民族であり、チリ国土の西側に連なる海岸線付近に居住していた5つの海洋民族である。彼らは、1880年代以降西洋人のフロンティアとなったこの土地で、野蛮であるとして排除され、彼らのすべての叡智の源である海すら軍事的な管理下に置かれ、引き離されることによって、彼らの伝統的な営みが断ち切られていった。
彼らは写真家マルティン・グシンデによる彼らのきわめて独創的な伝統のボディペインティングを撮影した写真によって記録されている。さらに、彼らの子孫としていまも生きる人々自身の過去の記憶をたどるインタビューによって証言される。しかし、先住民の子孫である人々が、近代的な文化と伝統的な文化が混在する生活の総体のなかの一部として民族の記憶を引き継いでいるということを忘れてはいけない。鑑賞者である私たちが想定し、また期待する先住民の姿を彼らがしていないという結果に対して、私たちは不満を抱くことは、結局フロンティアからの視点に同一化しているということを十分意識しなければならないだろう。この映画を見るにあたって、自分はどの立場から彼らに眼差しを向けるのかによって、この部分の解釈が分かれてくるのではないかと思う。

 2つめの共同体は1974年以降独裁政権下にあったチリのなかで政治犯として強制収容所に収監され、拷問を受けた末に海に遺棄された共産主義者の人々である。彼らは同時期に収容所から生き延びた人々や、研究者たちによって証言される。国家権力がある人々を排除しようとしたときに、こんなにも残虐な手段が用いられるのかと驚かざるを得ないし、このような行為に加担しなければ標的にされると怯えた人々の葛藤がそこには存在していただろう。しかし、監督であるグスマンはエモーショナルな表現をあえてすることなく、証言者である強制収容所の経験者から証言を引きだしている。その手法にもまた注目すべきである。映画の鑑賞者の感情を煽ることによって啓蒙するようなタイプのドキュメンタリーではないことがよくわかってくるだろう。むしろグスマンはエモーショナルな感情が消費されていくことを危惧し、十分な配慮をしている様子が伺える。
 
 そして最後にこの映画にはある謎が提示される。それは人種も時代も違うこの2つの共同体が偶然にも「ボタン」によって接続されることである。グスマンはこの2つの共同体を接続する際に、スピリチュアルな感性や前近代的な文化に対する極度なロマンに陥ることなく、研究者たちと協働することできわめて科学的なプロセスを用いている。むしろ因果関係が全くない2つの共同体がボタンという偶然の産物によって関係してしまっているという事実を淡々と描いているようである。鑑賞者である私たちは、最後にその偶然かつ必然であるようにみえる関係性に感動してしまいそうになるのだが、ここで感動することが、これまで提示されてきた彼らの負の歴史を美化することになってしまうのではないかと思い、少し立ち止まってしまう。

 ドキュメンタリーによって与えられるスペクタクルほど胡散臭く、また罪深いものはないように思う。グスマンによって編まれたこの映画は、きわめてクオリティの高い映像美を持ち合わせながらも、ギリギリのところでスペクタクルへの到達を回避しているように思われる。これほどまでに見る視点によって与えられる感覚が異なる映画も珍しいのではないだろうか。これから鑑賞される皆様には、ぜひとも映画をみている自分を省みながら、鑑賞してみてほしい作品です。

(舘)

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