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いよいよ11/7(土)公開
公開初日には五十嵐監督を交えた座談会も、あなたの日本映画愛をぶつけるチャンス!

【ストーリー】
東京オリンピックを約2年後に控えた2017年12月30日。ゴミ処理工場に一匹の犬が迷い込む。事務のタニちゃん(谷口蘭)は犬を探すが見つからない。夜勤を終えたケン(稲葉雄介)はこの日非番のゴウ(嶺豪一)とTVゲームをして遊んでいる。足立さん(足立智充)は帰ろうとせず、 ヤナさん(原田浩二)は新年の飾り付けに勤しんでいる。しかし彼らは皆同じような問題を抱えていたのだった。妊娠、不倫、家族、戦争で死んだ友達。そんな中、 足立さんとの不倫関係に思い悩むタニちゃんだったが、いつしか既に死んだはずの元工場長の父親(あらい汎)が、この場所にいるのではないかと感じ始める。(「息を殺して」公式サイトより引用)


・・・と、ストーリーを引用はしてみたものの、息を殺してにとってあまりストーリーが重要性を持つことはないと思う。ゴミ処理工場に迷い込んだ犬が狂言回しとなって映画を引っ張っていくわけでもなく、登場人物それぞれが抱える問題を、彼らが何とかしようとすることもない。何か得体の知れないものを感じつつも、正直初見ではあまり意味が分からなかった。しかし、監督のインタビューなどを読むにつれ、だんだんとではあるがこの映画のことを知れた気がした。そして、ある一つのことについて考えが巡った。

監督は、映画の中で迷い込んだ犬を登場させた理由について、この犬はみんなが家庭で飼っている犬の象徴である。家庭を繋ぐものであり、皆が同じような生活をしているという意味でも使った、と監督はインタビューの中で語っている。なるほど、と思ったが、私はもう1つ違う役割があるのではないかと思った。ここからはあくまで私の個人的な解釈である。

映画には何かしら「視点」というものが存在すると思う。例えば、主人公を中心に進んでいく映画だったら、観客は主人公と同じ視点になって映画を観て、ある程度主人公に寄り添って映画を観る。またあるいは、どの登場人物にも寄り添うことなく、ただただ客観的な視点で映画を観ることもある(スタンリー・キューブリック作品などを思い出してもらうと分かりやすいかも)。

「息を殺して」は、登場人物の誰かに寄り添って話が進むような映画ではない。彼らは大晦日の前日だというのに閉鎖的で不気味な工場の中で何をするわけでもなく存在している。映画を観ていて、彼らや工場の雰囲気がとてつもなく気味が悪かったし、自分とは違う異質なものを感じた。そんな世界に、突如犬が一匹迷い込む。前述した「視点」の話から考えると、私は迷い込んだ犬がこの不気味な工場の世界を(偶然にも)覗き見ていて、我々観客はその犬の視点になって映画を観ているのかなと思った。

だが、これは監督がインタビューの中で語っていることだが、この映画の中で語られる問題は、私たちが生きるこの現実の世界であまりにもどこにでもあるありふれた話だし、登場人物たちの無関心さも、私たちが普段生きていて他人に対して抱くそれと大差がない。息を殺しての世界は、私たちが生きているこの日本社会に酷似しているというか、もう同じと言ってもいいと思う。まるで合わせ鏡を見ているようだ。

「視点」の話に戻ろう。私はこの映画を観ていて、どういう視点で観たらいいのか分からなくなっていった。私たちは工場の外からやってきた犬ではなく、工場の中で息を殺し、生きているのかも死んでいるのかも分からないようなタニちゃんやケンやゴウたちと同じなのではないか。ずーっとあの工場の中にいたのではないか・・・。正直、犬が出てこなくても映画は成立する。犬が出てこなかったら、私は「視点」なんて気にすることなく、「あぁ、変な人たちの話だった」と、異世界を覗いたような気分になったと思う。しかし、犬という工場の外に生きる存在が登場することで、この映画の視点が曖昧になり、「あなたは、工場の外で生きる犬ですか、それとも工場の中に生きるタニちゃん達ですか?」と、監督から問いかけられている気がした。

果たしてあなたはどちらだろうか?
(肥田)
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