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さて、どうしたものか。

ロシアの巨匠、アレクセイ・ゲルマンの遺作である『神々のたそがれ』を
観た直後の正直な思いである。

観るだけなら別にこんなことは考えもしないのだが、
今回私には「レビューを書く」というミッションが与えられていたのだ。

感想がないわけではない。
心が動かなかったわけでもない。
難解だった、というのともまた違う。

この映画に対峙した体験を、生まれた感情を、言葉に変換するのがどうにも難しいのだ。
これまでウン十年間生きてきて、出会ったことのない映画であり、体験であったからだ。
それだけでもこの映画の凄さは伝わるだろうか。
ここで筆を置くか。なんて。いやいやもう少し頑張りますよ。

映画『神々のたそがれ』をボッシュやブリューゲルの絵画に喩えているのを目にするが、
確かにそうだと思う。1ミリたりとも気の抜けた部分のない、
隅々まであり得ない密度と熱量で埋め尽くされた“完全なる”画面
(もちろんそれは観客側も1ミリたりとも気を抜くことができないということである)。

さらに驚くことに、終焉を迎える3時間後まで、映画はこの密度を保ったままなのだ。
尋常ではないこの密度により、映画が生み出しているのは圧倒的な奥行きだ。
眼前の光景は、もはやスクリーンという区切られた限りある空間に収まってはいない。
この混沌は、画面のずっとずっと奥の方まで果てしなく続き、
泥濘は観客である自分の足元をも浸してゆく。音もなく。体内までも。

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緩やかに移動しながら長回しを続けるカメラは、
中空を漂ったり主人公であるドン・ルマータを追ったり彼と対峙したり追い払われたり
不意に立ち止まって路傍の人物を眺めたりする。

これは一体、誰の視点なのか。

一人称であったり二人称であったり三人称であったりと浮遊し憑依するカメラは、
観ている私たちの境界、その輪郭を徐々にぼかしてゆく。
映画と現実。あなたと私。神と人間。過去と未来。生と死。

エキストラとは言い難いほどの存在感を放つ町の住人たちは、
カメラの真ん前を横切ったり視界を遮ったりするし、覗き込んだり笑ってみせたりと
明らかにカメラの存在を意識した行動も取るのだが、映画はそれを許容している。
まるでジガ・ヴェルトフが真実を語ると言った「急襲された現実」だ。

登場人物たちは流れる汗を拭くこともせず、唾を吐き、涎を垂らし、排泄する。
間断なく降る雨で地面は泥濘み、死体には蛆が涌いている。
ここだけ読んだら「げっ」と思うだろうが、不思議なことに映画の印象は反して清浄なのだ。
いっそ神聖と言っても良い程に。

同様に、画面を埋め尽くす人々は喋り散らしたりゲップをしたり
武器をガチャガチャと鳴らしたりと始終騒がしいのだが、
観終えて振り返ると静寂に支配されていたかのような印象を残す。

相反する要素が、両立しているというのではなく、境界なく混じり合っている。
観ていると、どこか懐かしいような気がしてくる。
これは、社会の構成要素と成り果てる前の、幼年期に見えていた世界の在り様ではないか。
ストルガツキー兄弟による原作はSF小説だが、
ゲルマンが私たちに見せているのは世界の姿なのだ。

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原作があるのだからもちろんストーリーはある。
だが映画では冒頭に設定を述べるのみで、
今、誰が、どんな理由で、何をしているのか一切の説明を排している。
観客は突如としてアルカナルに放り込まれるのだが、
これは地球から派遣されてきたばかりのルマータの体験を追っているのではないだろうか。
目の前で繰り広げられる蛮行に為す術もなく傍観するしかできないルマータの絶望は、
スクリーンの前の私たちのそれに他ならない。

ラストでルマータは、神であることを放棄しアルカナルの一部となる。
それを眺める私たちに神のバトンは渡されて、映画は幕を下ろすのだ。

(mirai)

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