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 以下の記事は、若き才能グザヴィエ・ドラン監督の素晴らしさをひとりでも多くの方に知っていただきたく書かせていただいたものです。『わたしはロランス』の核心部分に触れている箇所がありますのでご注意ください。グザヴィエ・ドラン監督『わたしはロランス』は12月25日までの上映ですので、決しておみのがしなきよう!!

わたしはロランスtop


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 なにはともあれ、若干24歳で『わたしはロランス』を世に送り出したグザヴィエ・ドランは「反復」の映画作家である。デビュー作『マイ・マザー』、2作目の『胸騒ぎの恋人』、そして現在公開中の『わたしはロランス』の間に「反復」があり、また『わたしはロランス』だけをとりあげても「反復」がその作品のもっとも重要な箇所に現れる以上、そう言い切っても間違いではないはずだ。

『わたしはロランス』における「反復」⑴
 ロランス(メルヴィル・プポー)は同棲している恋人のフレッド(スザンヌ・クレマン)の頭上で衣類が詰まった籠をひっくり返す。予告編でも確認できるこのショットは、紛れもなくふたりの暮らしぶりがうまくいっていることを表わしている。宙を舞う小さな埃のひとつひとつがまるでふたりを祝福しているかのようだ。

 せっかく籠に詰めた衣類をひっくり返すこと。この——おおげさに誇張してしまえば——「禁じられた遊び」に興ずる権利こそ、愛しあうふたりに許されたここでの特権であって、この特権を享受するふたりをわれわれは客席から祝福せざるをえない。どのような「愛」であるかは違えど——そもそも「愛」を定義しうるのかという問題もあるのだが——、パン・ホーチョン監督の『イザベラ』が夜の路地でビール瓶を割って遊ぶふたりをとらえるとき、イ・ヨンジュ監督が『建築学概論』のふたりを誰かの家に「不法侵入」させるとき、われわれは客席からこのふたりを祝福していたはずである。おそらくこれと同じ規則がメルヴィル・プポーの身振りには作動している。

 しかしながらこの身振りがスザンヌ・クレマンによって「反復」されるとき、グザヴィエ・ドランはそこに同じ規則を適用しなかった。ロランスとの関係が破綻し、「ノーマル」な男と家庭を築いたフレッドが、息子の頭上で衣類が詰まった籠をひっくり返す。『わたしはロランス』の中盤でもっとも重要なショットのひとつであるこの「反復」は、しかし、われわれに誰かを祝福するよう求めはしない。

 スザンヌ・クレマン演じるフレッドがこの身振りをやってみせるとき、フレッドがロランスのことを思い浮かべてやっているようには決して思えないし、それはあくまで息子レオとの日課となっている遊びにすぎない——フレッドに早く来るように呼ばれたレオが、寝ぼけ眼のままでさえ滑らかに横になって衣類を待ち受けるのだから、これはおそらく母と幼い息子の日課となった遊びであるはずだ。したがって「反復」されたこの身振りは、「禁じられ」ていないばかりか、むしろそれはフレッドの家庭の日課なのだ。

 物語はフレッドがこの永遠に繰り返されるかに思える——ロランスが不在の——「普通の」家庭生活に疲弊していることをわれわれに伝えるのであって、そうであるがゆえになおさらこのショットは祝福されてしかるべき内容をなにひとつもたない。さらにその身振りがあくまでも「反復」であるがゆえに、われわれはきっかり1時間30分前にメルヴィル・プポーによってなされたその身振り——精確にはメルヴィル・プポーは画面の左から、スザンヌ・クレマンは画面の右からという違いもある——に引き戻され、同じ意味内容が反復することの不可能性と、このショットが映し出す事態の非対称性を思い知らされるのである。

 「衣類が詰まった籠をひっくり返す」身振りを「反復」させる。しかしながら反復は失敗する。この「反復」されたたったひとつの——「反復」されるのだから、ふたつの、と言ってもよいのだが——ショットが作品の序盤と中盤の物語を決定づけてしまう以上、グザヴィエ・ドランの演出技術は、まさか若干24歳のそれとは俄に信じ難く、卓越していると言わざるをえない。

(次回に続く)

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(たけむら)
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