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チェルノブイリ原発事故
その前日からこの物語は始まる
 
1986年4月25日。
幼いヴァレリーは川べりに父とりんごの樹を植え、
翌日に結婚式を控えたアーニャとピョートルは
川に浮かべた舟で喜びをかみ締めている
 
”最悪の事態は音も無く起こる”
次の日朝早くから動物たちは
何かに怯えるように落ち着きをなくし、
木々は枯れ、川にはおびただしい数の
死んだ魚が浮かび上がり、
だがその横で予定通りに結婚式は執り行われ、
人間だけがまだ何も気付いていない
 
ところが披露宴の途中、
新郎のピョートルは森林火災の
”消火作業”に駆り出され
アーニャの不安が画面を支配していく
 
夫が戻らぬままそれから数日後、
原発事故であるということ以外
仔細な情報は与えられないまま
突然の退去命令とともに
アーニャを含め人々の生活と故郷は
一瞬にして奪われる。
 
 
それから10年後の同じ場所
 
もう二度と住むことの適わない
土地になってしまっても
そこから離れることの出来ない人
戻りたくても戻れなくなってしまった人、
それぞれのの葛藤が描かれる。
 
生き残った人も
心はそこに置き去りにされたまま、
何も無かったことにして
生きることは出来ない。
衣食が足りていればどこでも生きられる、
という簡単なことではない。
親子の会話で渡り鳥についてのやり取りが出てくるが
さまにそのように何度でも必ず戻ってきてしまう
 
当時亡くなった人を弔うために村を訪れる場面で
チェルノブイリの意味である
”忘却の草花”ニガヨモギについて書かれた
聖書の一節が朗誦される場面が印象的だ。
信仰によってこの事実を
受け入れようとしているのかのようで切ない
 
原発ツアーのガイドとなった
アーニャの説明する
当時事故後の処理に当たった
作業員の死者数4000人
町を追い立てられた人の数50000人。
 
しかしその一人ひとりは
誰かにとっての父であり母であり、
娘であり恋人であり
決して
一括りの数字に置き換えて
終わりにされて良い存在は
一つも無い。
映画の冒頭父が息子に、
我々のものではない木には名前を付けない、
と語る場面があるが
この時の一人ひとりは
「犠牲者」という名で片付けてはならない
名前を持った、掛け替えの無い
たったひとつのいのちなのだ。
 
事故後行方知れずとなっていた、
今は正気を失ったかのような父は
プリピャチではないどこかを彷徨いながら
何故そうするのかも定かでないままに
人々の”名前”を聞き書きしながらつぶやく
確たる事実が必要だ、
”書き記さなければならない”と
 
そう、このまま忘れられたり
無かったことにして良いはずがない。
同じように原発事故を経験した日本人にとっては
他人事ではないリアリティーを持って
声高ではないがこころに深くしみてくる。
 
繰り返し映し出されるガラス越しの映像や
窓ガラスに映りこむ風景や、
あるいは水溜り
そのどれもがこの上なく美しく哀しい
そしてどんな言葉よりも
雄弁に私たちに語りかける
 
映画の最後
時間が止まったかのような現実に対して
あの日枯れてしまったはずのりんごの樹は
ヴァレリーの中でその生存を信じる父親のように
生き続けたくさんの花を咲かせる
彼の中だけで生き続け
彼のものとなったりんごの樹
 
そしてヴァレリーは言うのだった
”僕はもう知った、君に名前があることを”
 
レシェック・モジジェルの
クールなピアノが深い余韻を残して終わる

(ハイノキ)

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