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消費税増税法案の採決をめぐる
民主党内の攻防が激しかった頃、
多くのスポーツ紙や夕刊紙の見出しに
「野田」ではなく「小沢」という字が躍ったのは
その方が売れ行きが良いからだそうです。
脇で「観戦」している市民たちにとっては、
清廉そうな現役の首相よりは、
党内の権力争いや怪しいお金の匂いがする
悪役の小沢一郎の方がおもしろい存在なのでしょう。

でも、そんな小沢一郎や、あるいは今「重鎮」などと
批判の意味を込めて言及されている自民党の面々
といったベテラン悪役政治家たちも
昭和の政治家を知る人たちからすれば
小粒にみえてきます。

岸信介や佐藤栄作、田中角栄、あるいは児玉誉士夫
(彼は政治家ではないけれど)なんかは、
悪いことをしているだろうってことは
誰もが知っているけれども、
それが政治的権力を失う原因にはならない、
いわば、赤信号を平気で渡ることのできる人たちでした。

『イル・ディーヴォ』の主人公
ジュリオ・アンドレオッティも、
日本で言えばこの田中角栄たちに比肩するような
横綱級の「悪い」政治家です。

そういえば、昭和を代表する
「悪そうな顔の政治家」である岸信介は
「妖怪」と呼ばれていましたが、
この映画のアンドレオッティも
耳がとんがっていてどこか妖怪を思わせる風貌ですね
(トニー・セルヴィッロが特殊メイクで演じています。
日本でいえば役所広司が特殊メイクで
田中角栄を演じる感じでしょうか)。

映画の冒頭には、
『コッド・ファーザー』ばりのカットバックで
殺害・自殺場面が次々と映し出されますが、
その死の真相を探究しようとすると
アンドレオッティの名前が出てくるものばかりです。

銀行家のロベルト・カルヴィや
ミケーレ・シンドーナは、
彼とバチカン、マフィアの間での
お金の流れに関わっていたとされていますし、
弁護士のアンブロ・ゾーリはこの関係に
深く首を突っ込んだために殺されたと言われていますし、
ジャーナリストのミーノ・ペコレッリは
彼とモーロ首相の暗殺との関係を調査していたことを
理由に殺害されたと言われています。
国家治安警察のカルロ・アルベルト・ダッラ・キエーザや
司法官のジョヴァンニ・ファルコーネが
反マフィア活動の途上で暗殺された背景にも
彼とマフィアの関係があったようです。

そして、モーロ元首相の拉致・殺害という
大事件においても、当時首相であったアンドレオッティは、
(いろいろな事情が交錯するなかで)
拉致をしたグループとの交渉において、
党内でも路線が異なっていて競合関係にあった
彼の生命の安全を優先してこなかったと言われています。

これだけでもうお腹いっぱいな位の情報量なのですが、
この映画で描かれている彼の状況を理解するためには、
所属するキリスト教民主党内部の派閥争いだとか
冷戦だとか戦後の既存政党の崩壊過程とか
米国やNATOの謀略活動との関係なども
知らなければなりません。
海外公開時にこの映画がイタリア以外では
ヒットできないと言われたのも無理はありません。

映画は1991年4月に彼が新内閣を発足させる頃から
1994年の5月に彼がマフィアとの共謀で
起訴されるあたりまでを中心に扱っています。

ちょうどこの時期は、
イタリアの政治システムが大きな変貌を遂げる頃で、
『汚職都市(タンジェントポリ)』と呼ばれる
政界を中心とする大規模な汚職摘発捜査により
既存政党の大物議員がぞくぞくと捜査対象になり、
それも相俟って、それまで政治の中心を担ってきた
キリスト教民主党、社会党、共産党という三大政党が
全て解体されるという劇的な出来事が起きました。

アンドレオッティは、旧体制を代表する人物で、
中盤に彼が大統領を目指すのも、
旧体制の維持を試みる最後の抵抗でした。
しかし、彼の抵抗も(劇中でも示されるとおり)
彼の(マフィア担当と言われた)腹心
リーマ欧州議会議員が暗殺され、
さらに反マフィアの先頭にいた
ファルコーネ判事が暗殺され
新体制の構築を望む世論が盛り上がるなかで、
あえなく潰えてしまいます。

権力者の落日、体制の崩壊、新時代の幕開け。

激動の時代の中心点にいた彼の物語は
映画には格好の題材のようにみえます。
しかし、この映画の監督パオロ・ソレンティーノは
題材がもつドラマ性の強さをほとんど生かしていません。
ドラマの定石である、内面での葛藤や
個人より大きなものとの対峙などの
「衝突」を描いていないのです。

コッポラならきっと『ゴッドファーザー』のように
権力者の孤独を哀愁たっぷりに描いたでしょう。
スコセッシなら『カジノ』のように時代の移り変わりと
厳しい政界の掟にはあらがえない
個人の弱さを前面に出したかもしれません。

ソレンティーノ監督は、アンドレオッティの
内なる面の描写には力を入れません。
結局最後まで彼が何を考えているのかは解らないのです。
彼の小さな体躯や独特の口調も作用してるのでしょうか、
彼は人間ではなくまるで人形のようにみえます。

監督は彼一流のなめらかでのびのびとしたカメラワーク、
スタイリッシュな画と音を使って
その人形の横に花を添えるのです。
その花は薫りがただようふくよかな生花ではありません。
硬質で繊細な技巧を凝らした造花です。

佐藤久理子は、ソレンティーノ監督の最新作
『きっとここが帰る場所』の
パンフレットのなかでこう述べています。

「彼の作品を通して観ると、パンを多用した
流麗なカメラワークが多いことに気付くだろう。
ときにそれはやや技巧方にもなりがちではあるものの、
その動きが醸し出す不思議なリズムと浮遊感は、
しばしば周囲に馴染めない、または馴染まない
孤高の主人公の内面とシンクロし、
静かながらも饒舌にその心情を物語る。」

ぼくがみるところでは、『イル・ディーヴォ』の
ソレンティーノ演出がみせたのは
物語でもなくドラマでもなく詩情です。
結局、彼が何を考えていたのかはわからない
(彼は96歳で健康に不安を抱えながらも存命中です)。
ならば、そこは曖昧にして
詩情としてあらわせばいいのではないかと、
監督はそう考えたのではないでしょうか。

それを描写の放棄として批判することは簡単です。
たしかに、アンドレオッティは、
あまりにも多くの出来事を身にまといすぎている
大ネタすぎたのかもしれません。
ただ、コッポラ的な「哀愁」や
スコセッシ的な「個人の弱さ」では
どうしても出てきてしまう嘘くささ
(個人の内面など所詮外部の者には解らないのです)
を乗りこえる試みとしては
とても面白いと感じました。

(aka_kappa)

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