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『ヴァイヴレータ』の監督で
最近では『余命1ヶ月の花嫁』や
『雷桜』といったメジャー作品も
手掛けた廣木隆一監督の最新作。

とてもいびつな映画ですが、
ぼくはそこにこの作品の魅力を感じました。

物語は、2008年の秋葉原の
無差別殺人事件(らしき事件)の
被害者の恋人が、
秋葉原でさまざまな人と出会い
生きる希望を見いだしてくるというものです。

冒頭の15分間の長回しから異様で、
ここでカメラは主人公の女の子が
秋葉原駅を降りて街を歩いていく姿を
追っていくのですが、
当然、予算的に交通制限して
エキストラを仕込むことはできず、
本当に普段通りの街の中を彼女は歩いています。

「カメラは存在しないもの」という
劇映画のなかのお約束は破られ、
主人公の周りで、
通行人はあからさまにカメラに目を向けたり、
人によってはピースサインをします。

劇映画のお約束をやぶり、
まるでドキュメンタリーのような
虚実交錯するこの長回しは、
なんとも言えない印象を残します。

しかし、そんな異様さすら吹き飛ばす
強烈な場面が終盤に出てきます。

終盤、物語上の必然はほとんどないままに、
主人公と出会った男が311直後の被災地に行き、
台詞ないままに延々と歩く場面が
10分間ほどつづくのです。

一応、彼が東北に住む両親のもとを
おとずれるという設定ですが、
あまり重要視されていません。

この場面の異様さは、
その後の場面と一切繋がりがないことで
より一層強調されます。
なにせ映画は、
東北の場面の後、場面が変わって、
神田川の遊覧船に乗る
主人公の顔のアップが5分くらい映り、
その間彼女の台詞はたしか一言だけ、
それで終わってしまうのですから。

この東北の場面。
映画撮影中に大災害が起こり、
とりあえず深い意図も狙いもないままに
その情景をそれらしくカメラに収めただけの
凡庸なものと見ることもできますが、
ぼくにはこの場面は
映画人として震災に正しく向き合った
結果のように感じられます。

なぜならば、この東北の場面には
とても不器用なかたちで
監督の一人称があらわれるからです。
この映画で監督は、
秋葉原の事件の被害者の元恋人(つまり被害者側)
の気持ちを描こうとしていたはずなのですが、
東北の場面では
「被災地のこの情景を映画にしたい」という
監督本人のエゴが刻まれています。

おそらく、あの災害が起きて、
その被害の様子を知った時に、
監督はいてもたってもいられず、
映画のバランスだとかは全く考えずに、
ただ直感的に、本能的に
あの場面を撮りに行ったのではないでしょうか。

もちろん、ことの真相はわかりません。
まあ監督本人に聞けば
答えは教えてもらえるのかもしれません。

ただ、それがどうであれ言えるのは、
この映画が極めてバランスの悪い形で
あの東北の場面を入れていること、
あれほどのキャリアをもった映画人のことですから、
それは「あえて」おこなったものであることです。

地震が起きてから1年半がたち、
この間に多くの映画が直接的あるいは間接的に
震災関係のテーマを扱ってきましたが、
これほどいびつな形で震災を取り入れた映画は
ほかにはないのではないでしょうか。

そして、ぼくは、このいびつさの中に
むしろ誠実さを感じるのです。
あれほどの大災害が起きて、
とても多くの被害が出た、
物理的な意味や経済的な意味だけでなく、
精神的な意味や文化的な意味でも
大きな影響が出ている、
われわれはそれにどのように対処していいか
はっきりとわからない。

そういった状況を目の前にしたら、
こぎれいに何かまとめてしまうのではなく、
まずはその大きな混沌の中に入ってみる。
その混沌に自分が影響を受けてしまうくらいに。
監督は、それをこの作品の中でやったとは
考えられないでしょうか。

そしてこの映画の東北の場面からは、
その考えに説得力をあたえるだけの
光景が映し出されていました。
観終わったあとに、
その情景が頭からこびりついてはなれません。

(aka_kappa)

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