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日常会話は、
相手が言うことはすべて真実である
という前提のもとで成り立っている。
しかし、証言の場ではそうはいかない。
証言においては、つねにその発言が
真実であることが検証されるからだ。

ある本にこんなことが書いてあるのを読んだとき、
なるほどなと思った記憶があります。

日常会話の場合、
「昨日元町映画館に行った」とある人が発言したら、
それを聞いた相手は「何の映画を観たんだい」とか
「元町映画館ってどこにあるの」などと返し、
会話は続いていきます。
そこでは、相手の発言は真実である
ということが前提とされています。


けれども、証言の場では、
「昨日元町映画館に行った」と発言した場合、
「なぜ元町映画館に行ったのか」
「あなたが元町映画館に行ったことを客観的に示す証拠はあるのか」
などの質問をうけ、証言が真実であることが検証されます。
真実でない証言には価値がないからです。

映画館に行ったことくらいであれば、
その検証はそれほど難しくないのでしょうが、
たとえば、「映画館の前ですれ違った人は
○○みたいな顔だった」という証言になると、
その発言が真実であることを検証するのには
相当な困難があるでしょう。
証言者は、このような検証の場に
立ち会うことを余儀なくされ、
そこで戸惑いを感じることが多いようです。

日常会話でいちいち発言が真実かどうかを
問題にしていたら会話は成り立ちません。
もっと深いところまで話したいのに、
発言ひとつひとつが検証されていったら
そこまでたどり着くこともできなくなってしまうでしょう。
証言の場というのは
やはり少し特殊な世界のできごとのようです。


けれども、そこでこの問題を
一歩留まって考えてみると、
日常というのは、
客観的な事実の検証という点においては、
とても曖昧なもののうえに成り立っているのだ
ということがみえてきます。

真実かどうかわからないものを
とりあえず真実として成り立つ世界。
むしろそうでなければ成り立たない世界。
日常の会話はそれを前提としなければなりません。

アスガー・ファルハディ監督は、
前作の『彼女の消えた浜辺』でも今回の『別離』でも
「嘘」を物語の鍵として用いています。
しかし、今回脚本も書いた彼が焦点をあてたのは
「嘘」よりも、この日常会話の
不安定さなのではないでしょうか。

たしかに、本作でいえば、
嘘により見えなくなる真実、
そして嘘と宗教的戒律が
物語を構成する重要な要素となっています。

けれども、それだけではあのラストシーンの余韻、
それがわれわれに訴えかけるものは説明できません。

ことの成り行きをずっと見守ってきた
主人公夫婦の娘テルメーは、
父に「嘘をついているの」と問いかけた時点では
気づいていたはずです。
本当の問題は真実が何であったのかではなく、
そして誰が嘘をついているかでもないことを。

問題は、この家族(少なくとも夫婦)の間では
もはや日常会話が成り立たなくなって
しまっていることなのです。
日常会話は、真実でないかもしれないものを
あえて真実として受け入れることから始まります。
この夫婦にはもはやそれができない。
いや、娘と夫婦の間でも
それができなくなりつつあるのでしょう。
それは相手に対する信頼の喪失を意味します。

それを目の前にしても、
なおも何が真実であるのかに汲々とする両親を
みつめるテルメーが最後に出した答えに、
家族とは何か、
家族であり続けるとはどういうことなのかを
考えさせられました。

(aka_kappa)

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