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2012.05.07 別離(T)
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イランの映画『別離』はおもしろい。

イランは日本と違ってこうなんだ、
へ~おもしろいなあ
ではなく、
日本と同じだ、へ~おもしろい!
です。

先進国の経済的には中流の家族が
直面しやすい事柄が題材です。
監督がたまたまイラン人でイラン映画ですが
普遍的に見応えのある作品です。
むしろイランの特別な事情
(私は知りませんが)で見られることを
監督は排除しているように思います。

この映画で異文化としてのイスラムを
感じることはほとんどないです。
女性が常に頭に被っているヴェールは
ファッションくらいに思えてしまいます。
法廷や調停の場面の言い争いで、
「それが嘘でないと言うのなら
コーランに手を置いて誓ってみろ」
と言うところは、日本では
「心に手を当ててよーく考えてみろ」
になるくらいだろうと
コーラン知らずな罰当たりな私は思ってしまいます。
法は見逃しても神(良心)は欺けないですから
恐るべき言葉なんだろうなあと想像くらいはします。

後で感想を書くかもということもあり、
私はこの映画を見ながら
ああでもないこうでもないとよく思いました。
その思い(カッコ内)をあらすじに加えたらこうなります。

ある夫婦がいて、妻は離婚したがっている。
なぜか。

一人娘の教育的環境の改善のために
(具体的に今の環境がどう悪いかはまだよく分からないぞ)
外国への移住許可を苦労して手に入れるが、
(移住逃亡するほどの劣悪環境がまだ見えない)
夫はいっしょに外国へ来てくれない。
夫と離婚して娘と二人で外国へ行くしかないと妻は思う。
夫には痴呆症の老いた父親がいて
外国へ行くことは父親を見捨てることだとして
妻には同意しない、できない。
(夫は妻の外国移住に最初はっきりと反対していなかった節がある。
妻の言い分も少しは分かるからだろうか?)

しかしいざ移住しましょうとなるといっしょに行けない。
かわいそうな実の父がいるから。
(妻なんだから夫の気持ちを察して
そんな無理なこと言うなよと夫は思っているにしても
かっこわるくてハッキリそう言えないようだ。
ところで妻が夫の父のことをどう思っているかは分からないぞ。
まあ死に近い義理の父より、前途有望な中学一年の娘を
優先的に考えることに非はないよな。
ここで父も一緒に外国移住という選択肢は経済的に無理なのか
老いた父にそれを強いるのは非常識からなのか示されないなあ)

娘はと言えば、
両親に離婚して欲しくない、家族みんなで暮らしたい。

そういう家族に他人がやってくる。
父の介護を手伝う婦人とその小さな娘。
彼女を雇い入れて、
悪意はなく起こったある事件をきっかけに
話は急展開していく。

ゴマさん(前の別離ブログを書いた人→)も言ってましたが、
悪人は出て来ない。
分かりやすい悪人がいたら話は早いです。
しかし「石を投げつけてもいい罪人」はいません。

この映画は見ながら漠然と思うことが多くて困りました。
映画の感想を書かなきゃという
疚しい心のせいもあったかもしれませんが。

「のせい」と書いてまた思い出したのは、
この映画のセリフで
「(あなた、わたし)のせい」
という言葉から口論が始まることが多かったです。
まあ当たり前なんですが。
しかし嘆くべきは
「すべては誰かのせい」との思考にさせる
「状況のせい」というのもあるわけでして。

脇道にそれましたが、
映画のあらすじは奇抜でもなく
十分ありそうな話です。
家族の成員それぞれの事情はしかし、
他の家族の成員を気遣うからこその事情であって
利己的事情とはちがいます。
人並みの良心を持っているなら
利己的にはなれない事情です。

そんな家族に
老父の介護で雇った婦人とトラブルが発生して、
もう一つの家族(雇い人の夫)を巻き込んで
訴訟に発展してから事態は迷走します。

ここからが『別離』の
もう一つの問題系とも言える
「守るべき者を庇うためにつく嘘は悪か」
になります。

ここまで書いてきて息切れがして来ました。
頭でまとまってないですから。
一見単純な話にいく つも事情が絡まり合って
解けない知恵の輪を作っているようです。

話題を変えます。

イランの法慣習?でちょっと変わっていて
おもしろいなと思ったのは
裁判(簡易裁判?事情聴取?)のシーンです。
冒頭、ちょっと風変わりなアングルのショットから
映画は始まりますが
その後すぐに離婚訴訟のシーンになります。
ふたりは椅子に並んで座って
こちら(カメラ=判事=観客)を向いて
それぞれの言い分を訴えます。
判事はふたりの言い分を公平に聞いて
客観的な判断をくだし、
必要なら証人を喚問する。

日本や欧米の映画では当事者同士が法的な場所で
判事を前にアドリブのライブ口論をしない。
当事者同士が話すと事実よりもリアルな感情が入るから面白い。
感情は客観的には真実ではないけれども、
それこそ真実以上の何かでしょう。
感情とはいってもひとりひとりの理性が働いてることは
登場人物のセリフから分かります。
各人は「理性的判断」をしているとしても、
二人以上の合意を得ようとしてできなかった時に
思わず「感情」が出るという感じでしょうか。
中盤以降の介護トラブル後の訴訟では
家族も二つになりますから
もっとヒートアップします。

最後に、この映画が一番言いたかったことは
何かについての私なりの結論を言いますが
ネタバレとかではないです。

この映画のカメラのことです。
カメラというか事物の撮り方です。

『別離』のカメラは中間ショット
(そういうのか正確に知らないですが)
でしか人と物を撮らない。

ある一定の距離以上寄らないし、
俯瞰しようとして引かない。
イランの街を俯瞰して見たい、
遠景が見たいという欲求に応えてくれませんでした。

『別離』はその距離の映画です。
人間の感情には寄り添うけども、
魂の深淵を覗くような所作はしない。

よくしゃべる人も寡黙な人も子供も老人も
その距離を保ちながら光をあてる。
禁欲的です。

次の映画では恋愛を
この禁欲的手法で撮って欲しいです。

原題はA separation、別れてあることです。
別れてあることに必要な最小人数は
一人ではなく二人です。

人間は家族でも別れてあって、
個人の事情を形成します。
そして各人の事情に問題が生じた時に、
それに解決を与えることではなく、
その事情を正しく写し取り並列すること。
複雑で常に変化する水流と渦を
デッサンに写し取るダ・ヴィンチのように。
レオナルド・ダ・ヴィンチの小さな肖像が
娘の部屋の壁に貼ってあるのが
中間ショットの一部で映っていたと思います。

そして分からないまま気になっていた
ファーストシーンと
少し関連ができた気がします。
何人かの身分証明書のコピーが繰り返される、
アングルはコピー機のガラス底面から。
この意味はなんでしょう。
人間の経歴をまさしく写し取り並列することだ
とまでは関連づけられます。
離婚訴訟のシーンがそれに続きます。
いや、これらの私的こじつけは
早急で安易かもしれません。

とにかく大事なのは、
人生の問題でその人生の数だけ
連立方程式を作成し並列して差し出すこと。
それらを差し出されたのは我々観客です。
だから良く廻らない頭でも考えてしまいます。
正解を出すのは神様に任せましょう。

支離滅裂な作品紹介ですみません。
月並みですが、見た人の数だけ
この作品は存在すると思いました。

今度、もっと肩の力を抜いて見てみたいです。

(T)
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