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観る人によっては大した事件の起こらない
退屈な作品に思えてしまうかもしれません。

たしかにこの映画で事件と呼べるものは、
主人公の女性が思いもかけず
立って歩けるようになったということだけです。
しかも、それですら、
それが一時的な寛解にすぎないなのか、
あるいは完全に治癒したのかは明らかにされません。
物語のなかでは何かを意味するきざしのようにみえながら、
その先は一切説明されない場面ばかりが続きます。

治癒の予感、一時的な寛解にすぎないという予感、
信仰がもたらす奇跡の予感、単なる偶然の予感、
恋の予感、失恋の予感、嫉妬がもたらす悲劇の予感、
慢心がもたらす悲劇の予感……。

主人公にはこの後どのような人生がまっているのでしょうか。
あらゆる可能性が残っているともとることができますが、
何が起きるか分からない混沌の中にいると
表現する方がふさわしい状況でしょう。
それは濃霧の中にいるようなとても見通しの悪い世界です。

それでいて、主人公は周囲の期待や自らがもつ不安からでしょうか、
すでに「答え」は出ているかのようにふるまいます。
奇跡を体験した者「として」、健常者「として」、
(元)障害者「として」、一人の女性「として」などなど。
そのような態度は何か窮屈な感じがをうけますし、
そもそも予感だけがただよう現実にぴったり合うものではありません。

しかし、そんな観る人ならず主人公すら宙ぶらりんにしたまま
置き去りにしてしまうようなしんどい話だからこそ、
最後の場面がとても感動的です。
最後の場面、カメラは1分ほど主人公の姿を映し続けます。
そのなかで主人公は、
イタリア語でしあわせを意味する「Felicità(フェリチタ)」という語が
印象的に使われている曲を聴きながら、
つい先ほどは拒んだ車椅子に自ら身をしずめるのです。
そのときの表情がとてもよい。

感じてごらん。
ここにはもうぼくたちの愛の歌はあるんだ。
しあわせ感じる希望のようにただよっているんだ。

「Felicità」の歌詞にはこうあります。
また元に戻ってしまうかもしれないとか、
恋の行方もどうなるんだろうとか、
奇跡にふさわしい人物としてふるまわなくてはとか、
「普通の」人ならこういうことをしなくてはとか、
そういったごちゃごちゃした思いが全部ほどけていったときって
人はおそらくああいう表情になるんだと思います。

固くもなく柔らかくもなく、
緊張するでもなく笑うでもなく、
ただ身体のなかに何かが拡がっていくのを感じながら
すべてを素直にうけいれる。
混沌と安らぎは矛盾するものではない。
混沌があるのならその混沌を混沌として
受け入れることが必要なのではないでしょうか。
ぼくにはとてもポジティブなラストシーンに見えました。

<追記>
「Felicità」は1982年のイタリアの曲。
Al Bano Carrisiというイタリア版布施明(みたいな人)と
Romania Powerというあのハリウッド俳優タイロン・パワーの娘(!)
の2人組(当時夫婦)が歌っています。
歌詞はぼくの訳なので間違いがあったらごめんなさい。
ちなみに、その前の彼女が倒れたときに流れていた曲の歌詞は、
カフェにやってくる女性といい仲になりかけるけれど
その後すぐ振られてしまういう内容です(多分)。
こちらも意味深長です。
あと神父さんがかなり楽しそうに踊っているのにも注目してください。

(aka_kappa)

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