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sense_of_home_1.jpg

「家」とか「絆」という文字をみると、
なにかをごまかそうとしているような
胡散臭さを感じてしまいます。

これらの言葉は、個人を抑圧して
共同体の利益を優先させるような
ある種の価値観を含んで使われることが多く、
そういう意味で使われるのをみたりきいたりすると、
集団になじむことがあまり得意でないぼくは
窮屈な気持ちになってしまいます。

またこれらの言葉は、
単に安心の場をもとめるためだけにもよく用いられます。
たしかに、家や絆はわれわれに安らぎを与えてくれますし、
それは生きていくうえで欠かせないもののひとつです。
けれども、そのなかにどっぷりと浸かってしまうのは、
家や絆の外にいるものやひとたちとの
関わりを拒否することでもあり、
そこから真の問題解決をすることは
まず不可能と言ってい良いでしょう。

世界の監督があの大災害を受けて短編を作ったと聞いて
映画ファンとしては興味をひかれずにはいられなかったのですが、
そこにつけられたタイトルが
「a sense of home」と知ってすこし鼻白む思いを味わったのも、
そこで使われているhomeという語に
そのようなイメージがくっついていたからです。

だからこの映画のなかで、
アナ・トレント(『ミツバチのささやき』のアナちゃん!)が、
「津波の映像を音楽や語りで包み込むのは陳腐。
痛みを感じさせることを怖がっているみたい」と
カメラをまっすぐに見つめながら、
きっばりと断言したときには安心しました。

彼女の口を通してビクトル・エリセ監督が訴えるように、
どこか観る人の心を傷つけるような映画でなければ、
複雑で奇怪で時には残酷な現実に立ち向かえるような
力は持ちえないのではないでしょうか。
一筋縄ではいかない問題に取りくむときには、
より一層それは重要になってきます。
傷をつけるとは、
作り手自信が感じた痛みを観客に味あわせるものであり、
そうやって共に痛みをわかちあうことで
人は壁を乗り越えることができるのはないでしょうか。

この「3.11 A sense of home films」には、
たしかにアナが言った意味での「陳腐」の罠に
入り込んでしまった作品も含まれています。
しかし、「傷つける」ことを狙った作品も多く含まれています。

想田和弘が撮った家の周りの小さな動物たちに、
ポン・ジュノが撮った少女の戸惑いと涙に、
山﨑都世子が撮ったドヤ街の老人たちの顔に、
ペドロ・ゴンザレス・ルビオが撮った愛の裸体と死を予感させる海に、
ぼくはそれを感じました。

(aka_kappa)

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