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2016年
映画初めにぜひこの作品をご覧ください。


『シーヴァス』

少年も犬も同じ目線。

最近、トルコ映画の活躍が目覚ましい。『蜂蜜』(セミフ・カプランオール監督。第60回ベルリン国際映画祭金熊賞)『雪の轍』(ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督、第67回カンヌ国際映画祭でパルム・ドール受賞)など上映前からかなり話題になっている作品が多い。しかしこの『シーヴァス』今風に言えばヤバい作品だ。何がヤバいってこの写真ビジュアル。

ヤバい あらすじ
トルコ東部のアナトリア地方に小さな村が舞台。11歳の少年アスラン(この少年がやばい、名前めっちゃ強そう)同世代の子供たちの中では最も小柄でひ弱な感じだ。そんなアスランの学校で舞台「白雪姫』をすることになった。想いを寄せるアイシェはヒロイン役。しかし、王子役は村長の息子オスマン(名前強そう)が任命される。もちろんその状況にアスランは面白くない。諦めきれないアスランは担任の教師に懇願する「役を変更して欲しい」と。しかし簡単にあしらわれてしまう。
そんなことをしていると村に闘犬の一団がやってきた。この地では闘犬が娯楽の一つとなっていた(法律では厳しく取り締まりがある)そこで彼はシーヴァスと出会う。シーヴァスはオスマンの飼う闘犬ボゾ(ジオン軍のMSみたいな名前。これも強そう)に敗北し、血だらけで横たわっていた。そんな彼を誰もが見捨てようとしていたがアスランだけは彼を生きていると確信し、引き取って飼い主となった。そこからアスランとシーヴァスの「トルコ最強の犬」になるための生活が始まる。

とにかく弱い、アスラン弱い。ポスターのビジュアルはとんでもない眼力なのに、好きな子にもそっぽを向かれ、兄には怒られる。弱い、弱いぞアスラン。彼が主役に選ばれた理由、それは「彼がいつも負けていたから」だそう(公式パンフレットから)こどもたちの間で流行っていたゲームで常に負けていたから。彼は選ばれた理由を知っていたのだろうか….

しかし、彼はかっこ良い!初めは柔らかいニット素材の服を着て「あぁ〜、あの娘可愛いな。王子様の役になりたいな」(実際にはこんな台詞は言っていません)が表情から見てとれます。そして実際に行動にも映します。しかし結果には繫がりません。わずかな建物しかない土地、大地を目の前にして彼の姿はいかにも”冴えない”少年です。欲求を全面に押し出すのは後半の布石でしょうか。物語の冒頭の打ち上げ花火がそれを思わせてくれます。障害物のない空に打ち上がる火花。後半、シーヴァスに出会ってから彼の想いは爆発します。

闘犬の怪我から順調に回復したシーヴァス。アスランとの関係も良好です。しかし、彼の耳にシーヴァスが売りに出される話が舞い込んできます。正に寝耳に水、聞いてないよ〜状態です。
彼の見せ場はここから始まります。
常に彼の立場は下(兄との喧嘩でも馬乗り、教師に演劇の役を交渉する際も下から、ポスタービジュアルも上目遣い)そんな彼がここでは上からものすごい形相で相手を罵ります。「シーヴァスを売って金が欲しいなら、俺の服も売ればいい」そういいながら自らの服を脱いでいきます。彼の住む家はどちらかというと小さい2階立て。少し斜面になっているところか相手を見下げ、服を投げ、石を投げ、抵抗します。監督は当時、アスランの側でずっと演技指導を行っていたそうです。ほとんどアドリブはないそうなので、このシーンこそがアスランの本性なのでしょうか。監督が引き出したと言っても過言ではないでしょう。
これをキッカケにアスランは変わります。

闘犬のシーンも見所の一つではないでしょうか。シーヴァスはまるでアスランの気持ちがのりうつったかのように、相手に向かっていきます。アスランも回りの観客に混じってその模様を見つめます。カメラは一定の距離を保ちながらもあくまでアスランの視線と同じ高さから撮影されます。ここでは群衆が円形のリングを作ります。その中で2匹の犬が闘っています。2匹はおよそ5分間の戦いの中でその円の中で戦います。決して円の外にはみ出ず、逃げ出すようなことはしません。相手の犬はオスマンの飼い犬です。ここではアスランの「舞台で王様の役をしたい」想いをオスマンに変わって飼い犬のボゾにぶつけているのではないかと思われます。しかし決して外にはみ出ることもなく、人間(大人)が見つめる中で戦います。年上の監視下の中で自分の牙を出し合い、噛み付く。しかし、人間の監視は外れない。
監督は前半でアスランの成長を描きながら、この少年が生きる世界はまだ一部の大人が監視している閉鎖的な環境で生きるていることを表現したかったのではないでしょうか。


アスランとシーヴァス、身体を張った演技があるからこそ、”最強”を決める闘犬の試合、ラストシーンがさらにかっこよく見えます。
派手なアクションなどは出てきません。男性には特に見て欲しい。1/2~2週間上映。水曜日はメンズデー(¥1100)ぜひご覧下さい

(芋羊甘)
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海賊じいちゃんの贈りもの

 あぁ、これは完璧に油断していました。前情報もほとんど入れずに観たのですが、「やられた!」と思わずにはいられませんでした。

 映画は、父ダグ、母アビー、9歳の長女ロッティ、6歳の長男ミッキー、4歳の末っ子ジェスのマクラウド一家がダグの父で子供たちのおじいちゃんであるゴーディの75歳の誕生日を祝うためにロンドンからスコットランドへ車で向かうところから始まります。母アビーを演じるのは昨年「ゴーンガール」で世の男たちを心の底から震え上がらせたロザムンド・パイク。やはりというか何というか、今作でも夫婦関係は最悪で現在絶賛別居中、でもそれを世間に知られるのは嫌で表向きには仲の良い夫婦を演じていたりします。もちろんそんな嘘が実の子供たちに通用するわけもなく、3人の子供たちはうんざり。嫌な現実から逃れるためなのか、それぞれいちいち何でもメモしたり空想癖があったり石が異常に好きだったりします。

 ダグとアビーだけでなく、スコットランドのおじいちゃんの家に着いたら着いたで次から次へと些細なことで言い争っていがみ合う、どこかが壊れている大人が山ほど出てきます。本当に身勝手で嫌な大人ばかりの中で唯一子供たちが心を許したのはおじいちゃんだけ。4人は大人たちを尻目に浜辺へ繰り出し、かけがえのない時間を過ごします。が、しかしある悲劇が子供たちを襲います。大好きなおじいちゃんのために純粋な子供たちが起こしたある行動をきっかけに、ダグとアビーを始め周りの大人たちは大ピンチを迎えてしまいます。

 僕は、今作を観ていて「あまちゃん」を思い出しました(来年1月16日から「あまちゃん」を手がけた井上剛さんが監督を務める「LIVE!LOVE!SING!」が当館で上映されます)。あの社会現象を引き起こした朝ドラの主人公家族も、マクラウド一家と同じくパッと見には分からないけれどどこかそれぞれおかしくて、少し壊れていました。そして、どちらの作品も子供が起こした出来事によって周りの大人たちが右往左往し、そしてほんの少し家族や仲間の関係性が変わっていきます。あと、どちらの作品も「海」が非常に重要な役割を背負っています。

 僕はさっき、家族や仲間の関係性が「ほんの少し」変わっていきます、と書きました。「再生」ではありません。ここが重要だと思っています。マクラウド一家は最初から世間的に考えられる「理想の家族像」というものからはかけ離れています。最初から家族としてぶっ壊れているんだから、「再生」しようがありません。マクラウド一家のみならず、この映画に出てくる人たちが抱える問題は、この映画が持つどこかファンタジー的な雰囲気によってコミカルに描かれていますが、よく考えたら本人たちからしたらとても切実なものです。描き方によってはとてもシリアスにすることも出来るはずです。誰一人完璧な人間なんていません。そして、この映画はそんな身勝手で不完全な人間を否定しません。どれだけ上手くやろうとしても、お互い欠点を持った生身の人間同士だから、いがみ合うし、失敗するし、到底完璧なんてあり得ない。でも、それでいいじゃない?上手くいかなくて、まともじゃなくていいじゃないか、とゴーディおじいちゃんは観客である私たちに語りかけてくれます。だから、子供たちのピュアな演技もさることながら、アビーが終盤に大人数の前で啖呵を切るシーンが僕の中で一番心揺さぶられました。皆さん、ロザムンド・パイク、ただただ怖い奥さんじゃないんですよ。

 今年は邦画のイメージが強かった元町映画館ですが、この年の瀬に良質な洋画を用意しておりました。上映は12月26日~来年1月15日という、色々と忙しい時期。だからこそ、ぜひふらっとこの映画を観て、「自分はいまダグやアビーのようにイライラしていないだろうか?」とか、少し立ち止まって考えるきっかけになればなと思います。                  (肥田)


5時間17分という長さの映画を観るのは初めてでした。
桁外れな長さのためにこの映画を観ようかとどまっている方がいるかもしれません。
しかし実際に観てみようと覚悟を決めてしまえばあっという間。
その長さにためらっている人はぜひ観てみてください。

この物語では「女性」というものが強く表されます。
母親としての女性、友人としての女性、妻としての女性。
彼女たちの抱える問題が明らかになっていくにつれて、
そこには必ず「男性」の存在があることにも気づかされます。
父親としての男性、息子としての男性、夫としての男性。
「女性」も「男性」も必ずしもこうあるべきという形はなく、
それぞれがなりたい理想と目の前の現実の間で葛藤しています。
そういう意味でこの物語に主役は存在しないのかもしれません。
4人の女性の中の誰かに強く共感するかもしれないし、
彼女らの夫や友人に共感するかもしれません。
私の中では男性たちにあまり共感できなかったのですが
その中で桜子の息子、大紀をめぐる話はとても印象に残りました。
どうしても弱者としての女性の立場にばかり目がいきがちですが
対して責任を求められる男性の立場はある意味弱者的側面も持つのかもしれません。

この映画に出てくる登場人物は実際の女優さんではなく一般人の方だそうです。
だから演技は女優さんよりも自然ではないと感じさせるところもあるのですが、
『ハッピーアワー』では逆にそれが狙いなのではないかと思わせるのです。
それは彼女たちの言葉の影響が大きいです。
彼女たちの言葉はひとつひとつがとても重みがあり
物語が進むにつれて彼女たちの台詞がまっすぐにつきささってくることに気付きます。
映画は映像に重きを置かれがちですが、この映画ではむしろ逆だなあと思いました。

いえ、映像もとっても素敵なのです。
特に神戸に住んでいる方は見知った光景が多く出てくるので
観ているだけでも楽しいのではないかと思います。
ぜひ元町映画館に見に来てください。
(トト)



愛が、牙を剥いて襲いかかってくる。

噴き出す汗で衣服を貼り付かせた中村映里子が吠えて、吠えて、吠えまくる。そ
の姿にとにかく圧倒されっぱなしだった。積年の恨みに吠えているのか。愛を
求めて吠えているのか。持て余した感情が薄い身体を、細い首を、小さな肩を突
き破って濁流のように流れ出してくる。その洪水に飲み込まれながらも、彼女
の一挙手一投足から片時も目を離せないでいた。乱れた髪も、骨が浮いた胸元
も、意外と無骨な指先も、強い瞳も、小さな唇も、吠えるごとにその輝きを増
すようだった。手負いの獣が放つ生の閃光のような、その正体は野生の、剥き出
しの愛なのだった。

かつて自分と母を棄てた暴力的な父親と再会する娘。シャブ中になり自暴自棄に
生きる妹と再会するチンピラの兄。誰より大切な友人を亡くした少女。この映
画にはわざとらしいほどにドラマチックな設定が溢れている。日常淡々系にもも
はや食傷気味であるが、だからと言ってこれはないだろう。最初はそう思って
いた。ところが、観ているうちにこの設定やストーリーに意味は無いのだと思え
てきた。中川龍太郎監督の描きたいのは、“感情”ただそれだけなのではないだ
ろうか。設定やストーリーはその感情の発露のために必要なただの舞台装置であ
り、それは別の形であっても“感情”の表現が達成されるのであれば問題はない
ように感じられた。そしてその“感情”は、映画制作のために創作されたものとい
うより、監督自身の非常にパーソナルな部分から発せられているという気がす
る。この映画に描かれる“感情”は、それだけ生身の熱を持っている。依り代と
なった登場人物を通して創作者の叫びが聞こえてくるようで、強く胸を打たれ
たのだった。

拙さの残る作品であることは間違いない。でも、それも設定やストーリーと同じ
くらい意味の無いものだ。中川龍太郎監督には今後も、自身の感情を表現する
作品を作ってほしいと心から思う。もっともっと観せてほしい。人の感情でしか
揺さぶることができない場所が、誰の心の中にもあるはずなのだ。

(mirai)




それは、初めての体験だった。

5時間17分という規格外の長さに怯み、最初はとりあえず第1部だけ観ようと思ったのだった。あまりに続きが気になる第1部の終わりを迎えた瞬間、第2部を続けて観ることに決め、結局そのまま第3部まで一気に観てしまうこととなった。
第2部、3部と進むにつれ、あかり、桜子、純、芙美の4人はもはやスクリーンの中の人ではなくなっていた。それは私のよく知っている人たちであり、友人であり、親友であり、「純ならいつかやると思ってた!」「私も昔、あかりにこうやって怒られたことあるわ〜」と奇妙な既視感に包まれ、もはや映画と自分との距離が近くなるどころか無くなっていることに気づいて心底驚いたのだった。

5時間17分、休憩を挟むと実に1日の1/4にもなる時間を費やしたのに、不思議と疲れはなかった。長い映画を観たというのではなく、気のおけない相手となら何時間でも一緒に過ごせるように、あかり、桜子、純、芙美の4人とそれだけの時間を一緒に過ごしたという感覚だけだった。終わったときには寂しささえ感じた。まだまだ一緒にいたいのに、しゃべっていたいのに、もうサヨナラの時間になっちゃったなんて。

これは一体、どういうことなんだろう。観終えて(実はすでに2回観た)何日経っても、まだ私の記憶には4人がそう古くない友人のような位置を占めている。もう少し経つと、きっと「久しぶりにあの子たちに会いたいな」と思ってまた劇場のシートに身を沈めることになるのだろう。映画が終わっても、彼女たちとの関係は終わっていない。この話の続きを、彼女たちからまたいつか聞けるような気さえしている。職業柄たくさんの映画を観る機会に恵まれてはいるが、こんなことは生まれて初めてだ。

ひとつには、やはり5時間17分という時間があるのだと思う。映画というのは、当然ながら観客の持つ時間とは別の時間軸で展開するものだ。『ハッピーアワー』も例外ではなく、彼女たちの「5時間17分」を描いているわけではない。でも、濱口竜介監督が「これ以上は短くできなかった」と話す通り、これが2時間の映画であったならきっとこんな感覚は得られなかっただろう。まるでノーカットのように思える、彼女たちが参加するワークショップや朗読会のシーン(傑作と名高い『親密さ』でも舞台劇を丸々劇中に収めている)。そこで私たちは登場人物と時間を共有することにより、観ている者という枠組みから外れて一緒に過ごしているのと同等の体験を得られるのだ。

どうか、5時間17分という時間を、この映画を観ない理由にしないでほしい。というか、それが観ない理由だとするとあまりにもったいない。これだけ距離が無くなってしまうと、この映画が「良い」かどうかということがもはや私にはわからない。ただ、唯一無二と言って良い「特別な存在」になったことは確かだ。5時間17分(6回も言った)で大切な親友4人と出会うことができた。街で偶然彼女たちを見かけたら、うっかり役名で呼びかけてしまいそうなことだけが心配だ。気をつけなければ(何せみなさん関西在住なもので)。

(mirai)

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